雑記

好き勝手言います

眠気

投げやりな記事を書いてから早2ヶ月。タイトルのイメージすら思い付かない。季節のせいか、常に眠いし、頭がぼけっとしている。書こうという気持ちはあるし、文章になりそうな細々としたフレーズは思いつくのだが、そこで止まっている。なんていうか、出そうなくしゃみが出ない感じ。出ないのかよ、出かかってたじゃねぇかっていうあの感じ。このような頭でちゃんとものが書けるのか非常に不安である。迷子である。まあ、それでもとやかく言わず適当に書いていってみようじゃないか。

 

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※追記※
思ってたよりも長くなってしまったので、読む人は適当にね。

 

言い訳

3月の中頃、3月末くらいには何か新しい記事を出そうと思い立ち、4月の頭に記事を書き始めたのだが、気がついたらゴールデンウィークになっていた。私の感覚としては、「もしかして今日寝て明日起きたらもう年末なのでは?」くらいに時間の流れが早い。原因は、忙しさ半分、内に篭りたい欲求半分と言ったところだ。休みに入ったのでやっと落ち着いて書くことができている。おかげで中途半端な下書き記事ばかりたくさん増えてしまった。

いろいろ渋滞している。凝り性な所がある上に、好奇心もあり、さらに不器用さもあるので、私には時間が足りなさすぎるのだ。仕事もそれなりに忙しいといえば忙しいけど、忙しい人だとは思われたくないし、なりたくもない。それにどちらかと言うと、ひたすら山積みにしている感じと言った方が正しい。

努力せずに時間とお金が欲しい。宝くじを買うしかないだろうか?ドラえもんに会いたい。ドラえもんに会ってこの怠け心とだらけたい欲求を満たしてもらいたい。適当な諦念をぶつけて、投げやりに秘密道具を出してもらいたい。宿題せずに遊びに行きたい。
とても優れた本を書いた人の執筆日記に「今日はだるくて一日寝ていた」みたいなことが書いてあるのを読んだことがある。読んだとき、これだけの人でもだるいときがあるのだと思い、妙に安心した。そうだよね、だるいよね。

まあ、不定期更新だと明言しているし、このブログは私の気分によってのみ進んでいくものなので、良いのである。私は執筆者であると同時に、原稿が上がるのを待ってる編集部でもあるのだけど、この執筆者は怠け者で気分屋なのだ。そしてそれに自分だけではなく、他人をも巻き込んでいる。パンもケーキも美味しく食べたい。ここは小さな独裁国家

私にとって、内に篭るというのは、外に対して閉鎖的であるものの、美しいものにとても心を開けているときでもあるように思っている。だけど、それはコタツの中の猫である。ぬくぬくと心地よいだけではいけない。独りよがりな思想なんて。頑張ってコタツから出ないといけないときだってある。そう考えると、多少忙しくても、ブログを書く余裕くらいは持っているのが理想だなとは思う。

言い訳はこのくらいにしよう。これ以上、自分の怠慢を晒して正当化していてもしょうがない。ということで、今回の記事は3月〜4月の思考をざっくばらんに書いていくことになりそうだ。

 

居眠り

先ほど、頭が起きていて身体が寝ているとき、身体が動かせなくなる現象(いわゆる金縛りと呼ばれるやつ)に初めて遭遇した!
夢から覚める直前のことだった。もしかすると、今までにも経験したことがあるような気がしなくもないけど、朧げであまり覚えていない。だけど、今回はそれをすごくはっきり認識できた。感動である。感動したのでちょうどカーソルがあった場所の近くに記録しておこうと思った次第である。

私は夢の中で何故か原付に乗っていて、道が分からなくなり、Googleマップで調べようとしていた。調べて、「その道順間違ってるでしょ」ってもう一度調べ直すところで、私は夢から覚めようとした。そんなときに起こった。流石に私はこの現象のことを知っていたので、焦ったりなんかしない。むしろ、「これ!例の!身体が寝ているタイミングだったから動かせなくなるやつじゃん!!」と頭の中で冷静に分析しつつ、感動してテンションが上がった。しかも、「知ってるよ。つまり頭がまだ夢の中なんでしょ。夢から覚めればいいんでしょ。」と考えながら、夢から覚めたのである。いやあ、楽しかった。一つ、甘美な冒険をしてしまった気分である。得しちゃった。

ちなみに、不思議な夢や印象的な夢を見ると、ついGoogle先生に夢診断なるものを面白半分で聞いてみたくなるのだが、バイクの夢は行動力とエネルギーに溢れている象徴だそうだ。私の場合、こういうのを調べると、大概、「疲労が溜まっているようです」といった内容が出てくるので、非常に珍しい。眠気も覚めてスッキリしたところだし、順調に書けそうな気がしてきた。よしやるぞ。なお、別のサイトに、バイクでも原付のような小さいものの夢は実力不足を表していて微妙っていうことも書いてあったのだけど、そしてその通りのような気がしなくもないけど、ひとまず気にしないでおこう。他でもない私の気分の都合で。

【訳:ブログ執筆中に眠気が我慢できず、結局眠ってしまった。それもまあまあ早い段階で。】

 

Ink

万年筆のインクを買った。正直、沼である。様々な色のインクが展開されていて、自然や情景の名称がついている。くすぐられてしまった。単純な人間だ。万年筆も買った。万年筆はピンキリで、まだよく分かっていないことも多いので、一番シンプルなのものを。私には分かる。これ以上先は立ち入ってはいけない。私にはもうすでにお金がかかる趣味があるのだ。なんか、そういうものがこの世には多すぎる。私の自制心が頑張ってくれているからこの程度で済んでいるものの。(やはり、宝くじ…?)

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できるだけ気にいるものに、できる範囲で頑張ってお金をかける。文字にすると普通のことのように見えるけど、私としてはまあまあ頑張ってお金をかけている、と思う。たぶん道具が好きなのだ。物から人の発想を感じるのが好きだし、道具は私を自由にしてくれるように思っている。

 

Antoine

サン=テグジュペリの『戦う操縦士』を読んだ。これは別に戦争が始まったこととは関係なく、前回投げやりにサン=テグジュペリを出してしまったので、その流れで読み始めたものだ。単純にこの人のことが好きなのである。喪失の豊かさや孤独の強さを知っていて、だけどそこに甘んじずにその先を進んでいる人のように感じる。(「人は一人で生きて、一人で死ぬのだ」みたいなそれっぽいことを言って満足するような人間にはなりたくないからね。)

サン=テグジュペリ第二次世界大戦フランス軍パイロットで、『戦う操縦士』はそんな彼の実体験をもとに書かれた小説である。一貫して「何のためになら死ねるか」を問い続けた一冊で、ヒトラー我が闘争』に対する返答だとも言われている。(こうやって文字だけ並べると重苦しそうだけど、重くはない。私の感覚ではだけど。)

3月、呼応するように、YouTubeでピオレドール賞を受賞した人たちの動画を見た。ピオレドール賞というのは優れたクライミングをした登山家に贈られる賞で、その中の平出和也さん・谷口けいさんペアのカメット峰の話や山野井泰史さんの生涯功労賞の記者会見などを見た。生死に近いところで生きている人たちだ。呼応するのも無理はない。ここで近しいものを感じた箇所を少し引用したい。

これまで私はいくつもの冒険を生きてきた。郵便飛行航路の開拓、サハラの不帰順地域、南米大陸…それに比べて、戦争は真の冒険ではない。せいぜい冒険の代用品といったところだ。冒険というのは、それが築きあげる絆や投げかけてくる問題、そしてそれに触発されて生み出されるものがいかに豊かであるかにかかっている。コインの表か裏かで決めるような単なる運任せのゲームを冒険に変えるためには、生死を賭けるだけでは駄目なのだ。戦争とは病気だ。チフスのような病気なのだ。(『戦う操縦士』、P96)

一流登山家たちはただ山に登るだけではなく、そのルートの美しさ、山への態度、精神などを大事にしている。命を懸けることと命を粗末にすることは違う。サン=テグジュペリ冒険者なのだなと感じる。やはり私は破壊より創造の世界の方が好きだな。創造に破壊はつきものなのかもしれないけど、少なくともそれは自分の責任のもとに行われるものだ。破壊だけするなんて悪趣味にも程がある。

あと、もう一箇所引用しておきたいところがある。
あらゆるシステムにはバグが生じるものだと思うが、そういうものへのフォローは成されないことが多い。なぜなのだろうということを常々思っていたのだが、それに対する指摘が面白かったので引用したい。

われわれの世界を作っている歯車は、互いにうまく噛み合っていない。問題なのは個々の部品ではなく、それらを正確に組み合わせる時計師だ。時計師がいないのだ。(同書、P105)

われわれは行政機構なるものの真っ暗な腹の中にいる。行政機構とはひとつの機械だ。完全であればあるほど、個々人の自由意志は排除される。人間が歯車のひとつとして機能する完璧な行政機構のなかでは、もはや怠惰も不誠実も不正も入り込む余地はない。だが、機械があらかじめ定められた一連の運動しかできないのと同じように、行政機構はなにひとつ新しく創造することはない。それは管理するだけだ。(略)行政機構というのは、新たに生じた問題を解決するようにはできていないのだ。単なるプレス機械に木片を挿入したところで、完成した家具が出てくることはない。状況に応じて臨機応変に機械を対応させるためには、誰かがその機械を改造する権利を持っている必要があるだろう。しかし、行政機構は人間の自由意思から生じる不都合を防ぐために作り出されたものであり、その複雑に組み合わされた歯車装置は人間による干渉を拒む。時計師の手が介入してくるのを拒むのだ。(同書、P106)

私は仕事柄、機械に関わっているので、この話がすごく腑に落ちる。物に対して考えられることが、人に対してだとなぜこうまで考えられなくなるのだろうと疑問に思っていた。人と物は違うので当たり前といえば当たり前なのだけど、結局、“システム”の性質そのものが人間の性質とは合わないということなのだろう。(特に規模が大きくなればなるほどそれが顕著に現れるように思う。)

政治は社会の豊かさに影響を与えていると思うけど、社会の豊かさが政治の良くないところへの抗力になるとも思ってるので、いろんな可能性を考えていきたいものだね。

なんかすごく真面目な話に行き着いてしまった。ゆるしてね。書いていて自分でも疲れてきたのでここで終わる。上手くまとまり切っていないようにも思うけど、それこそ今の自分には実力不足なので、またそのうち。

 

さいごに

他にも書こうと思っていたトピックはあるのだけど、疲れてきたので今回はここでおしまい。別の機会に書くとしよう。長くなりすぎた。そうだよ、ひと記事がやたら長いから更新に時間がかかるんだよ。もっと細かく分ければいいのに。

思ってたより小難しくかつ長い記事になってしまったけど、自分の思考整理のためにも今回は気にせず書いてみた。もしここまで読んでくれた人がいたら感謝です。では。

☆次回☆ ついに目標の10投稿目!(目標小さくいくというスタイルは変わらない)