雑記

好き勝手言います

Hole

根拠も理由も意味もない、哲学…風なことを呟く。行き先はよく分からない。

 

シロクマ

f:id:mskfk:20230312141600j:image

*1

シロクマの毛は、白色に見えるけど、本当は透明で、ストローのような形状をしている。そんでもって、毛の下の地肌は黒色。つまり、シロクマは、白色だから白色に見えているわけではなく、黒色だけど毛の特性と光の加減で白く見えているに過ぎない。

…そんなことを、以前、職場で何かの話の流れでなんとなく喋ったら、意外と知られていなかった。蘊蓄を披露したかったわけでもなく、嫌味な意味でもなく、もっと一般的に当たり前の事実として知られていることだと勝手に思い込んでいたので、知られていなかったことにも、そこまで興味を持ってもらえなかったことにも驚いた。

シロクマは、この毛で寒さから身を守っているらしい。透明の毛を通り抜けた光は、黒い肌に当たる。黒い肌はその光を熱として効率良く吸収する。ストローのように空洞になっている毛は、空気を含み、その空気が温められることで、保温効果を発揮する。さらに、空洞の毛に当たった光は乱反射するので、側から見ると白く見える。氷に囲まれた場所ではそれが保護色になる。(詳しく知りたい人は、【シロクマ 毛 空洞】で検索して下さい。)

普通に生活してたら必要のない話ではあるけれど、私はこういう話がけっこう好きだ。ただの毛の話が、実はただの毛の話ではなく、光や熱の性質の話に繋がっていく。マクロとミクロの世界を行き来できる自由に嬉しくなる。シロクマの真実。秘密の覗き見しているみたいだ。それはそうと、秘密というのは元を辿っていくと、良くも悪くも幸せと平和への願いに行き着くんじゃないかと時折思うのだけど、どうだろうか。
(少しばかり善良すぎたかもしれない。“秘密”というテーマはとても面白いので、気が向いたらまた改めて書いてみようかなと思う。)

 

 

Hole

人には何かしらの穴が空いているとして、それに足掻く事は良いのだけど、穴を埋めること自体を人生の目的にするのは駄目だと思っている。足掻くのは前に進むためにあるべきもので、埋まってなくてもとりあえず前に進む、そうすれば必要なものは自分の内部から生まれるし、生み出せる。

そういったことをよく考える。
欠けた人間の一丁前の誇り。

これ、自分自身の心の穴ではなく、自分の歩く道にある“落とし穴”であるならば、きっと別の話になってくる。落とし穴には落ちないように気を付けなければいけないし、場合によっては、道の修繕や這い上がる力が、怪我をしたのなら手当てが、落とし穴が怖くて歩けないのなら克服が必要になるだろう。

世界は広い。地下で生まれ生きる人、落とし穴から空を見上げる人、他人の道に落とし穴を作る人、考えなしに埋め立て工事をする人…。いろんな人がいて、人が何を欲しているのかなんて本当によく分からない。人間は変な生き物である。

まあ、雨の日には傘を持ち、生きなければいけないときには温かいご飯を食べ、お守りが欲しいときは学習する…。自分にとっての生きるとはそんな感じだなと思う。

 

 

すぬパワー

そういえば、スヌーピーには、
『配られたカードで勝負するしかないのさ。それがどういう意味であれ』
という有名なセリフがある。

名言なんて評されたりすることもあるのだけど、それはともかく、犬であることがコンプレックスなスヌーピーらしいセリフだ。

そんでもって、「名言なんてクソ喰らえだね」という反抗心より、「まあ君がそう言うなら仕方ないね、従うよ」という純粋な気持ちが湧くのは、すぬパワーのおかげだと思う。(でれでれ)

 

 

名の下

「人間は生まれながらに平等だ」と言う人がいる。嘘。人間が平等だったことなんてない。人間はいつだって、見下し、見上げ、責任を押し付け合い、搾取しあって、とうとうどこにも行けなくなる。

平等というものがあるとするなら、法の名の下に平等になれる可能性がある、というだけである。あくまで、可能性。実際は、その法ですら平等にはできていないのだけど、それでも人はその可能性を捨ててはいけないのだと思う。

人間の言う“名の下”というのは面白い。なぜなら、先に述べた可能性を持っているポジティブな面とは裏腹に、(仲間うちの)自由と平等の名の下において差別をしたり、愛の名の下において暴力を振るったりもするからだ。

こういうチグハグが、人間を可愛くしたり残念にしたりしている。やるせない。



孤独

「人は一人で生まれて一人で死ぬ」というのはよく言われる話である。まあ、つまり、人は生まれながらにして孤独なのだ。一人で居ようと誰かと居ようと、孤独が孤独であることに変わりはない。

孤独は、『同情を伴う孤独』と『共感を伴う孤独』の、大きく2つに分けることができるのではないかと、私は思っている。

『同情を伴う孤独』というのは、受動的なものであることが多いように思う。極端な例だけど、例えば、戦争に行かされることになった若い兵士とか。訳も分からないまま戦地に赴き、人を殺す。そういう境遇にあった人は孤独を持つ…というより、孤独を持たされる…といった方が正しいように思う。こういった受動的な孤独は、他者からの同情を齎すだけで、同情はその人に孤立を与える。

もう一つの『共感を伴う孤独』は、例えば、私が最初に述べた孤独の話…これに対して、「ああ、自分も似たように孤独を考えている」と思う人がいたとする。そうすると、孤独であるのにも関わらず、共感が生まれる。交わることのないもののように見えて、孤独と共感は本来両立するのである。(共感したから何かを分かり合えている…とは限らないが。)

ちなみに、『同情を伴う孤独』を持つ人は、『共感を伴う孤独』を、能動的に自分で選び直す必要があるのではないか、というのが私の自論である。

 

 

こだわり

何かをこだわるとき、「こだわりは依存の一種だからね」というのが、いつも頭の片隅にある。

自分にとって大事な価値観であるものが、他人にとってどうでもいいことなんてザラにあるし、なんなら拒否されることも当たり前にある。

もちろん、こだわりがいけないという話ではない。ただ、独りよがりなこだわりほど残念なことはない…と、私はどうしても考えてしまうので、そうならないためのちょっとした自戒のようなものである。ある意味、これもこだわりなのかもしれない。

 

 

知能

知能を持つことは悲しいことなのに、なんで人間は知能を持ってしまったのだろうか。時に、理解というものには悲しみが伴う。

聞くところによると、知能を持つが故に間違えてしまうこともあるそうじゃないか。なんだっけ。えっと、3択クイズの正答率を人間と猿で比べると、人間は猿に負けてしまうとか。経験と想像による思い込みが人を間違えさせる。(人間はどうも悲観的になりやすいようだ)

でも、分かることは面白く楽しいことでもある。たぶん、人は興味を持つことや理解することを、止めることはできないだろう。

以前、とある人が、「明確な原因があるわけでもなく、治すこともできない種類の悲しみがある」という話をしているのを読んだことがあるのだけど、知能がその要因のひとつなのかも…と思った。

何はともあれ、そんなどうしようもない人間には、心の帰る場所が必要なのだと思う。
(“心の帰る場所”というのは、文学や芸術分野の軸の一つにもなっていると思う。)

 

 

後書き

2月に書き始めた記事です。ずっと下書きに放置し続けて、4月中には書き終えるぜと思いつつ、さらに放置し続け、やっと書きました。ちょっとつまんない話になってしまったかもしれませんが、読んでくださりありがとうございました。

 

*1:ポストカードは大神慶子さんという方の作品(keikooogami.com